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神奈川県郷自慢横浜市の名産物



横浜市 横浜港湾の誕生と横浜港の進展

15世紀頃には横浜村は既に存在し、当時の横浜村は、野毛浦の海苔・ウナギ・カキの養殖・製塩があった、農民は米作・大麦・小麦・ヒエ・アワ・ソバ・大根等を、自給自足程度に栽培していた小さな村でした。1853年(嘉永6年)に、アメリカのペルー提督が浦賀に黒船を率いて来航し、翌年「日米和親条約」を結び、1858年「日米修好通商条約」始め、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと条約を結び、鎖国を開き、神奈川・長崎・函館を貿易港として許可された。日米修好通商条約の中で、江戸が外国貿易港として重要になり、幕府は外国人と日本人遠ざけたいとの思惑もあり、横浜に港が設置された。主な貿易品は、綿類・羊毛・砂糖・小麦粉などの輸入。日本からは生糸・お茶、羽二重などが輸出されていた。その後、関東大震災や第二次世界大戦などを経て、1971年(昭和46年)から、大黒ふ頭の整備が進められ、輸入も非鉄金属や石油に変わり、輸出も鉄鋼や自動車に変わり。1964年(昭和39年)東京オリンピックをきっかけに、大桟橋埠頭に客船用の施設も整い。その後の高度成長期の波で近代化や合理化が進み、現在は船の大型化も進み、コンテナでの輸出入に姿を変えています。また、港は臨海道路をはじめ、市民に親しまれる港とするため、横浜みなとみらい21・臨海パーク・海の公園や八景島などが造られるなど、港湾の発展に向けた整備などが進められています。


横浜港 日本の三大貿易港・日本の近代化を牽引

当初の横浜港は、現在の神奈川県庁本庁舎付近(中区日本大通)にあった運上所の沿岸に東西2つの波止場が設けられて貿易が始まり、明治初期までの代表的な輸出品は生糸と茶であり、輸入品は綿糸・織物と砂糖などであった。特に生糸の輸出は昭和恐慌期に至るまで、綿花輸入と並ぶ最大の貿易品であり、横浜は生糸貿易港として世界に名を馳せた。貿易が拡大し外国人居留地での取引が活発になると、その玄関口となる横浜では、流入する外国の文化・技術がいち早く採り入れられた。大正期にかけ、新港埠頭などの港湾施設が整備されたことにより、神戸港とともに東西の国際貿易港として日本の近代化を牽引し、また、京浜工業地帯の工業港や東京の外港として大きく発展した。現在横浜港は、10ヶ所の埠頭と249のバースを有し、外貿コンテナ取扱個数は東京港に次ぐ国内第2位で、東日本を代表するコンテナポート。また、クルーズ客船の発着港としても寄港数でも、平成15年に国内港湾第1位となって以来、その地位を保っている。


横浜港 新港ふ頭 横浜海上防災基地・汽車道運河パーク

新港ふ頭は、横浜港のほぼ中央に位置し、はしけを使用せずに陸から船へ人や物資を積み込める横浜港初の近代的なふ頭として、明治後期から大正にかけて建設されました。現在も赤レンガ倉庫や50t起重機(ハンマーヘッドクレーン)などの歴史的に貴重な構造物が現存しています。さらに、「みなとみらい21新港地区」の再開発が行われ、海上保安庁横浜海上保安部の庁舎を兼ねた横浜海上防災基地、横浜国際船員センターなどの新たな港湾関連施設やワールドポーターズ、赤レンガ倉庫2号館などの商業施設及び汽車道・運河パーク、カップヌードルミュージアムパークなどの緑地が整備され、市内外からの多くの来訪者で賑わう地域として生まれ変わっています。8・9号岸壁には、新港客船ターミナル、及び上屋機能の一部を転用した「東京芸術大学 大学院 映像研究科」の校舎があります。


横浜港 横浜赤レンガ倉庫 1号館・2号館

横浜赤レンガ倉庫は、中区の横浜港にある歴史的建築物の愛称であり、正式名称は新港埠頭保税倉庫で、2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工した。保税倉庫としての役割は1989年(平成元年)までに終え、2002年(平成14年)に、1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設となり、付近一帯は広場と公園を備える赤レンガパークとして整備され、横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設となっています。

横浜赤レンガ倉庫1号館:045-211-1515
横浜赤レンガ倉庫2号館:045-227-2002


横浜港 横浜の玄関口 大桟橋ふ頭・メリケン波止場

大桟橋ふ頭は、近代港湾における本格的な港湾施設として、明治22年(1889)〜29年(1896)にかけて建設された横浜港で最も歴史のあるふ頭。 昭和39年(1964)の東京オリンピック開催を契機に、外航客船に対応する客船ターミナルの新設をはじめとした大改造を行い、本格的な客船ふ頭として横浜港に入港する客船を迎える横浜港の玄関となっています。議論の末、東京港に先立ち、横浜港大桟橋ふ頭は、1913年に第二期工事が完成。外国航路の貨客船における日本の主要拠点となり、当時の日本郵船、東洋汽船、大阪商船など日本海運業界の表玄関の一つとして利用され、外国海運業界の外国定期航路の拠点として活躍し、1970年には貨客船寄港数が過去最高となり、明治末頃から1970年頃までは、メリケン波止場とも呼ばれていた。1975年3月にはクイーン・エリザベス2が初入港し、空前の52万人の見物客で溢れ返った。以降、大桟橋に寄港する客船はクルーズ船となり、「ロイヤルバイキングスター」、「キャンベラ」、「ロッテルダム」が主に寄港するようになった。特筆すべきは、旧ソ連極東船舶公社がナホトカ定期航路を持続運用し、1980年代全体を通して横浜港を国際旅客定期航路保有の港としての威容を保った。


横浜港大桟橋国際客船ターミナル 日本最大豪華客船「飛鳥U」船籍港
にっぽん丸・ふじ丸などや世界各国の大型客船がクルーズ寄港

世界の人々を迎える横浜の玄関口、新しい「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」が2002年に完成し、にっぽん丸・ふじ丸・ぱしふぃっくびいなす等、3万トンクラスのクルーズ客船の入港が増加、また、飛鳥Uやサファイア・プリンセスなど、3万トンを超える大型豪華客船が、2隻の同時着岸が可能になり、本格クルーズ時代を迎えた日本が、世界に誇れる国際港がここに誕生しています。日本郵船のクルーズ客船である、日本最大豪華客船「飛鳥U」は、横浜港を船籍港(母港)とし、大桟橋ふ頭を拠点に活動しています。また、横浜港周遊船であるロイヤルウイングや、伊豆諸島への離島旅客航路も運行しています。


横浜港大桟橋 客船寄港歓迎セレモニー 文化交流活動推進

横浜港には毎年、多くの大型客船がクルーズ寄港しておりますが、入港時や出港時に接岸ふ頭で、寄港を歓迎するセレモニーを開催しています。セレモニーの内容は、横浜市からの挨拶や花束贈呈、船長からのご挨拶や、横浜市消防音楽隊による演奏、消防放水艇による歓送放水、ドラムパフォーマンス集団「鼓和」、などで大型客船をお迎えしています。また、広く市民の皆様にも参加をいただき、歓迎イベントを盛り上げたり、文化交流活動などを推進し、横浜港のPRなどにも貢献いただいています。


横浜港 山下公園 臨海公園の基本形

中区山下町にある山下公園は、1930年(昭和5年)3月15日に開園した臨海公園。関東大震災の復興事業として市内の瓦礫などを大正14年から4年がかりで埋立て、上部を良質な土で覆土して造成が行われ、公園の基本的な形ができあがりました。当時は、現在の沈床花壇の部分が船溜まりになっており、現在も氷川丸の横にある小さな橋がそのなごりをとどめています。開園5年後の昭和10年3月には復興博覧会が行われ、その船溜まりでは鯨が泳ぎ、今でいうパビリオンが建ち並び、たいへんな賑わいを見せたそうです。


横浜港山下公園 日本の貨客船 日本郵船氷川丸

埼玉県大宮市の氷川神社に由来された名の氷川丸は、日本郵船が1930年に竣工した日本の12,000t級貨客船で、北太平洋航路で長らく運航した。世界的には中級サイズの貨客船だったが、接客設備とサービスの優秀さによって太平洋を往来する著名人達に愛用され、数多くの逸話を残した船として知られている。多くの日本商船が喪失された太平洋戦争でも、沈没を免れた数少ない大型貨客船で、戦後も1960年まで北太平洋航路で運航を続けた。運航終了後は、横浜市山下公園前の横浜港に係留されている。氷川丸のサービスの良さが評判を呼び、著名人を含む多くの乗客で賑わった。1932年の11次航海ではチャールズ・チャップリンが乗船、1937年の47次航海ではイギリス国王ジョージ6世の戴冠式から帰国の途にあった秩父宮夫妻が乗船するなど、氷川丸は華々しい活躍を続けた。アメリカ側の発着地であるシアトル市民にとっても、1930年代、日本から定期的にやってくる「ハイカワマル」は馴染み深い存在になっていたという。太平洋戦争の頃、1941年10月、在日アメリカ・カナダ人を送り届け、在米・在加日本人を乗せて帰国した。そして休む間もなく、病院船として活躍、船体は白色に緑色の帯を引き、赤十字が描かれ、夜間はイルミネーションのように電飾された。その姿は意外にも美しく、純白の氷川丸は兵士から「白鳥」と呼ばれ親しまれた。1960年に運航を終了するまでに北太平洋を238回横断して、延べ25,000人余りの乗客を運んだ日本が誇る客船です。
開館時間:10:00〜17:00(入館16:30まで)
休館日:月曜日(祝日の場合は翌平日)
臨時休館日:2013年1月22日(火)〜25日(金)
※年末年始は通常どおり営業
入館料:一般200円 中高生・シニア(60才以上)100円

日本郵船氷川丸:045-641-4362


日本を代表する国際貿易港 京浜港・国民生活を支える3港

●京浜港は、東京港・川崎港・横浜港の3港で構成され、我が国を代表する国際貿易港・国内物流の拠点港として、外貿コンテナ貨物取扱量の約40%という圧倒的なシェアを誇り、首都圏の市民生活や経済活動などを支えている港です。
●東京港は、我が国を代表する国際貿易港、国内物流の拠点港として首都圏の市民生活や経済活動を支える重要な役割を果たしている。
●横浜港は、我が国を代表する国際貿易港として、また、京浜工業地帯を支える工業港として発展している。
●川崎港は、京浜工業地帯を支える工業港として発展している。
●京浜港は、日本を代表する国際貿易港として取り扱う貨物は首都圏だけでなく全国に及び、島国である我が国の国民生活を支えている。
●京浜港は、京浜工業地帯の中核をなす臨海コンビナートを形成し、国民生活や経済活動に必要な製品を生産する工場群が立地している。
●京浜港は、物流施設や倉庫等の物流施設だけでなく、東京港のお台場海浜公園や横浜港の赤レンガパーク等、人々で賑わう憩いの場が整備されています。


横浜市神奈川区 東海道宿場町の神奈川宿・横浜都心臨海部

横浜市神奈川区は、鎌倉時代から神奈川湊として賑わい、江戸時代には東海道の宿場町「神奈川宿」として栄えるなど、古くから交通の要衝として発展するとともに、幕末には開国の舞台となり、開港当時には、オランダ・フランス・イギリス・アメリカの領事館、フランス公使館・イギリス士官宿舎・外国人宣教師宿舎・ヘボン施療所など各国の領事館や公使館などが置かれました。市のほぼ中央に位置する神奈川区は、横浜市の都心臨海部と新横浜都心の一角を占めており、JR線・京急線・東横線・相鉄線・市営地下鉄など、14の駅が存在するなど、いずれも都心へもアクセスしやすい好立地にあります。


横浜市神奈川区 六角橋町・六角橋商店街・恒例ドッキリヤミ市

昔、この地に架かっていた橋が六角形の材木で組まれていたので、そこから「六角橋」と名付けられた、現在の横浜市神奈川区六角橋町の六角橋商店街は、戦後まだ市内の復興が十分でなかった頃から「仲見世」が建ち始め、ヤミ市から発展してきた商店街である。魚屋・肉屋・八百屋からコンビニ・飲食店は昼のランチから夜のショットバーまであり、オリジナリティーあふれる店舗が集まっています。恒例「ドッキリヤミ市」では、地元の神大生も協力、フリマ、ライブ演奏で商店街を盛り上げている。また、ハロウィン、銭湯寄席、8月には、みせものまつり&プロレスなど、楽しいイベントが盛りだくさん。地元だけでなく遠方からのお客様も多い。レトロな店構えの“仲見世通り(ふれあい通り)”は、ロケ地になるほど、雰囲気のあるアーケード街で観光で訪れる方もいます。

六角橋商店街事務所:045-432-2887


横浜市神奈川区 日産自動車横浜工場1号館
日産エンジンミュージアム

日産自動車横浜工場1号館は、1934(昭和12)年に建築、日産自動車横浜工場にあり、1968(昭和43)年に銀座に移転するまで本社として使用された建物。当時の姿に復原され、現在はゲストホールとして一般公開されている。横浜工場が操業を開始した1935年製の7型エンジンをはじめとする、28基の歴代エンジンを展示しています。自動車の心臓部にあたるエンジンにスポットをあて、絶えず挑戦し続ける日産自動車の技術開発の足跡をご紹介しています。 市内唯一の戦前期の工場事務所ビルとし、2002年11月、横浜市より歴史的建造物に認定されました。また、2007年には経済産業省から近代化産業遺産に認定されました。
公開:10:00〜16:00(無料)
日曜・GW・夏期休暇・年末年始は休館
日産自動車(株)横浜工場

ゲストホール:045-461-7090


横浜市神奈川区の農業 広大な畑のキャベツ栽培

横浜駅から2km位しか離れていない場所に、広大な畑が広がり、キャベツなどの栽培が盛んに行われており、キャベツ畑の向こうにはランドマークタワーが見える、都市型農業風景の郷があります。横浜市内では多くの農産物が生産されています。多くの人口を抱えた都市部ですので、消費が生産を大きく上回っていることも特色です。また、横浜の農業はバラエティに富んでいます。野菜だけでなく、果樹に花き、植木に畜産。しかも生産額は神奈川県内でトップクラスです。小松菜生産量は全国2位。カリフラワー・キャベツも10位以内。 野菜生産は、キャベツをトップに、大根・ほうれん草・小松菜・トマト・枝豆・カリフラワー・ナスなど。果物生産は、梨(浜なし)・柿・梅・栗・ブドウ・キウイフルーツ・ブルーベリー・ミカンなど。横浜の農地面積・農家戸数は、神奈川県内1位で、横浜市は全国でも例を見ない農地と住宅地が混在した都市です。


横浜市神奈川区子安 西洋野菜発祥の地・西洋野菜の栽培

開港以前、日本でもダイコンやゴボウ・サトイモ・ナス・ホウレンソウなどの野菜を加熱して食べていましたが、西洋人は自分たちの食生活に欠かせない西洋野菜の栽培を自給自足的に始めていた。開港当時、横浜居留地に住む英国人・カーティスは山手方面の肥沃な土地に目をつけ野菜の栽培を始めた。また、初代駐日総領事ラザフォード・オールコックが書いた「大君の都」によれば、エドワード・ローレイロが横浜近郊にレタス・パセリ・キャベツ・カリフラワーなどを導入することに成功したとあり。その後、西洋野菜の需要の高まりを受け、神奈川奉行が吉田新田(現在の中区末吉町)で西洋野菜の栽培(キャベツ・イチゴ・ニンジン・セロリなど)を試みたのを皮切りに、根岸の清水辰五郎、近藤伊勢松、子安の堤春吉、磯子の井野銀次郎、宮崎留五郎らが横浜に多くの西洋野菜を定着させていきました。


横浜市神奈川区の漁業 子安浜埋め立て子安運河 船溜り漁業基地

江戸時代には東海道宿場町の「神奈川宿」に隣接していた子安村は、時代とともに発展が進む横浜港と同様に埋め立てが進み、江戸時代より子安村にとって大切な漁場だった子安浜も、1900(明治33)年頃から埋め立てが始まり、広大な京浜工業地帯が出来上がった。以前は海だった子安運河(入江川派川)に沿った浜通りには、船溜りに木の杭を立て水面にせり出させた家屋や小屋が建ち並ぶ、漁師まち風景を残し、細い路地に入ると貝やシャコを加工したり、生活に密着していた井戸のなごりを今に残している。入江川河口は子安浜と呼ばれ、江戸時代からシャコ漁が盛んであったが、1971(昭和46)年に漁業権を放棄し、昭和50年代後半に、アナゴの漁業権を再び獲得し、現在も漁業を続けています。漁獲する主要な魚は、アナゴ・カレイ・スズキ・メバル・カサゴなどで地元に水揚げしている。横浜東漁業協同組合は、約280名の組合員で組織し、現在約30名位が漁業に従事し、また後継者の育成などにも努め、5年後位には独立し自分の漁船を持ち、一人前の漁師になってもらいたいと願っています。国際化がより進む横浜に漁師がいる事自体知らない横浜市民が多い中、300年以上続いている横浜の漁業文化を守り続け、出来る事なら今以上に発展させ、昔のような活気のある漁業の街づくりのために貢献しいと、今も頑張っている漁業関係者の皆様が子安にはおります。京浜港横浜3区内には、子安地区・生麦地区の漁業基地があります。

横浜東漁業協同組合:045-441-0558


横浜市西区 みなとみらい21地区 中央地区・新港地区

横浜市西区は、横浜市のほぼ中央に位置し、市内18区中で最も小さい区ですが、交通の要衝であり、県下最大の商業・業務機能が集積し、横浜の玄関の横浜駅周辺地区や、横浜の新しい顔「みなとみらい21地区」、横浜開港以来の歴史を伝える掃部山公園など、小さいながらも様々な特色のある地域で構成され、横浜港に面している地域です。略称「みなとみらい21地区」の都市景観100選受賞地区には、ランドマークタワーや日産本社ビルなどがある、オフィスビル開発を推進する「中央地区」と赤レンガ倉庫やコスモワールドなどがある「新港地区」に分けられます。


横浜市西区 三菱重工業横浜造船所 旧横浜船渠第1号ドック
第2号ドックは永久保存・日本最古で国の重要文化財

イギリス人技師・パーマーは、、港湾の発展にはドック・倉庫などの付帯設備の充実が重要と説かれ、それを受けて渋沢栄一と地元の財界人によって、1889年(明治22年)横浜船渠が設立され、北米航路の中型客船氷川丸や大型客船秩父丸(後に鎌倉丸と改名)などを建造、海軍艦艇も若干数建造した。1935年(昭和10年)合併し、三菱重工業横浜船渠となり、後に横浜造船所と名称変更。1960年代に入り船舶の大型化が進み、ドックの需要が低下し、ドックの使用を停止。造船所も1980年(昭和55年)より本牧・金沢地区へ移転を開始、1983年(昭和58年)に移転完了し閉鎖された。跡地は横浜みなとみらい21として再開発され、1985年(昭和60年)に、1号ドックと周辺が日本丸メモリアルパークとして整備、日本丸を浮体展示している。明治29年(1896)に竣工した第2号ドックは、現存する商船用石造りドックの中では日本最古であり、1993年(平成5年)に改装され、横浜ランドマークタワーの敷地内にドックヤードガーデンとして永久保存されています。旧横浜船渠時代に竣工した2基の ドックは、国の重要文化財に指定されています。

三菱地所ビルマネジメント(株)
ランドマークプラザ:045-222-5015


横浜市西区 帆船日本丸・総帆展帆公開・海洋教室

本丸の帆走する優雅な姿は「太平洋の白鳥」と呼ばれています。帆船日本丸が最も美しく見える29枚すべての帆をひろげる日。月1・2回の割合で日曜に、ボランティアの方々の協力を得て行われています。展帆(てんぱん)帆をひろげる作業時間は、10:30〜11:30、畳帆(じょうはん) 帆をたたむ作業時間は、15:00〜16:00、船内を見学できる時間は9:30〜10:00、11:30頃〜14:30、16:00頃〜17:00(最終入場は16:30)[悪天候の場合は中止・時間変更有]
また、帆船日本丸では、帆船の生活を体験できる「海洋教室」を実施しています。帆船の規律正しい団体生活を通じて協調性や精神力などを養います。甲板みがき、ロープワークやカッター訓練など他の施設では体験できない内容です。

帆船日本丸記念財団:045-221-0280


横浜市中区
西洋文明を取り入れた窓口・横浜の行政や経済の中心に発展

横浜市中区は、西洋文明を取り入れる窓口になり、横浜の行政・経済の中心として発展した。関内エリアには、「横浜三塔」と言われる、大正〜昭和初期に建てられた歴史的建造物が多く、「神奈川県庁(キング)」「横浜税関(クイーン)」「横浜市開港記念会館(ジャック)」が現存し、横浜開港以来、横浜のシンボルとなっており、今も使用されながら保存されています。また、旧英国総領事館の横浜市「イギリス館(寝室を一般公開)」、大正15年に建てられた、J.Hモーガン設計のスパニッシュ様式の山手111番館(一般公開)、昭和2年頃、外国人向け集合住宅だった「山手234番館(一般公開)」、スイス生まれの貿易商エリスマン氏の邸宅(一般公開)、イギリス人貿易商ベリック氏の邸宅、J.H.モーガンの設計のベーリック・ホール(一般公開)、東京に建てられた「明治政府の外交官の内田氏邸宅」は平成9年に、山手イタリア山庭園に移築復元され、一般公開している、国の重要文化財。また、関東大震災後に、山手町45番地に「外国人住宅のブラフ18番館」は、平成3年に山手イタリア山庭園に移築復元され、震災復興期の暮らしを再現し、横浜家具の復元展示などを行っている。(一般公開)など、歴史的な建造物が現存し公開(無料)されている。中区には開港当時を知る貴重な建造物が、他にも数多く残っており、「開港以来の歴史と異国情緒」という、横浜らしさが色濃く残されている地域です。


横浜市中区 横浜中華街・チャイナタウン 東アジア最大の中華街

中区山下町にあるチャイナタウンは、以前は唐人町や南京町と呼ばれていた。華僑の出身地は広東省が比較的多いが、上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には当地の出身者が多い。中区の中国人人口は6000人を超え、同区で登録されている外国人の約4割にあたる。約0.2平方kmエリアに500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。チャイナタウンは、1859年(安政6年)、横浜が開港すると外国人居留地(一種の租界)が造成され、欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住した。彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かった。その後、横浜と上海、香港間に定期船航路が開設されると、中国人貿易商も来住し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などを建てていった。これが横浜中華街の原型となっている。昭和30年には、中華街大通りの入り口に「牌楼門」が建てられ、牌楼門の上「中華街」と書かれたことで、「中華街」と呼ばれるようにる。牌楼門は平成元年に建替えられ、現在の「善隣門」となりました。

横浜中華街発展会協同組合:045-662-1252


横浜市中区 日本大通り 日本初の西洋式街路
日本最初の全鉄筋コンクリート造建築物・三井物産横浜ビル

日本大通りは、開港まもないころ起きた「横浜大火」を契機に、防火帯の役割を持つ日本初の西洋式街路として生まれた。また、21年の象の鼻パークオープンにより、海へと続く開港の歴史を感じられる空間となりました。日本大通り沿道に建つ、三井物産横浜ビルは明治44年創建の歴史的建造物で、この建物(1号館)は、日本最初の全鉄筋コンクリート造の建築物です。1号館の前年に完工した附属倉庫は、煉瓦造建築でありながら、 開口部リンテル、室内柱、屋根スラブに鉄筋コンクリートが使用されています。現在も現役のオフィスビルとして利用されており、18社のテナントが入居しています。1階にはギャラリー「ギャルリーパリ」があり、窓枠の装飾が歴史あるビルとマッチして、ヨーロッパの街角を思う風景を演出しています。

物産不動産株式会社:03-3503-1221


横浜市中区 日本の本格ホテル
グランドホテル・ホテルニューグランド

1873年(明治6年)にオープンしたグランドホテルは、横浜で本格的なホテルとして海岸通20番地、英国公使館跡地(現在の人形の家辺り)に開業した。グランドホテルは横浜だけでなく日本を代表するホテルとして、食事や各施設の充実ぶりには各国の要人なども感嘆の声をあげたようです。旧館の建築には居留地建築家として名高いブリジェンスが設計したと言われ。明治23年(1890)にフランス人建築家サルダの設計によって、隣接する18・19番に新館を増築し、室数200と横浜を代表するホテルとなり、さらに水町通 に面した裏手にも増築を図り、客室360を数える大ホテルとなっていった。グランドホテルはその後、東京の帝国ホテルとならんで日本有数のホテルとなりましたが、1923年の関東大震災によってその姿を消しました。1927年に開業した「ホテルニューグランド」は、グランドホテルとは無関係ですが、グランドホテル跡地と近接した、フランス海軍病院跡に建設され、海外客に対し実質的後継館であることを謳う狙いもあって、市民に名称公募で「ニューグランド」の名称を与えられたそうです。2代目名ホテルニューグランドは戦中戦後を逞しく、なおかつ現在も現役でグランドホテルの名前と伝統を引き継いでいます。

ホテルニューグランド:045-681-1841


横浜市中区 シルクセンター国際貿易観光会館

シルクセンター国際貿易観光会館は、横浜港大さん橋入口近く、横浜港における生糸・絹産業及び貿易の振興並びに観光事業の発展を目的とした施設で、開港当初イギリスの貿易商社ジャーディン・マセソン商会のオフィスがあり、英一番館と呼ばれた由緒ある地に、横浜開港100周年を記念して昭和34年(1959年)にオープンした。設計した建築家坂倉準三はル・コルビュジェの弟子で強い影響を受けており、コルビュジェの建築を彷彿とさせる外観で、横浜港を見渡せる。2・3階にシルク博物館があり、船会社、港湾会社等のオフィスや、郵便局、神奈川県観光協会観光案内所等が入居している。また、シルク会館には、シルクに関する歴史をたどりながら、絹の科学・技術の理解を深めるとともに、主要なシルク製品の産地の紹介、 貴重な絹服飾の工芸美の鑑賞の場が提供されています。
シルクセンター国際貿易観光会館:045-641-0845
シルク博物館の展示では、年間を通じた常設展と、特別展を開催しているほか、真綿づくりやくみひもの実演など講習会も開催し、シルクの普及を図っています。また、シルクに関する様々な貴重な資料を保管し、閲覧できます。
開館:9:00〜16:00 休館:月曜、12/28〜1/4
入館料:一般500円 シニア300円 高・大学生200円 小・中学生100円

シルク博物館:045-641-0841


横浜市中区 建築家アントニン・レイモンド設計
「不二家」伊勢佐木町店

横浜は,近代文明開化の地、そして常に時代の先進地として独自の文化を持ち、個性的な街を築いてきた。 伊勢佐木町の不二家の建物は、チェコ出身の建築家アントニン・レーモンドが設計した、震災復興期の作品で昭和12年に竣工した。鉄筋コンクリート造の地下1階地上5階建て、商業施設としては、レーモンド唯一の作品で、前面をガラスブロックで覆った表現は、シンプルで戦前の建築とは思えないほど現代的なデザイン。設計者のレーモンドは旧帝国ホテル設計監理のため、F・L・ライトと共に来日。その後も日本に留まって、聖アンセルモ教会・東京女子大学礼拝堂及び講堂など、モダニズム建築の作品を多く残した。また、前川國男、吉村順三などがレーモンド事務所で学ぶ日本人建築家などに大きな影響を与えた。 不二家は、明治43年に、創業者の藤井林右衛門が、元町に洋菓子店を開業し、店名は「二つとない」という意味に由来。元町店はシュークリーム・エクレアを販売して繁盛した。大正11年に最初の支店として伊勢佐木町店を開店、翌年銀座店を開店したが、9月1日に起こった関東大震災により各店は焼失。バラック建ての店で再開し、昭和12年に開店した伊勢佐木町店は、「不二家洋菓子」の看板を掲げて、地下ビアホール、1階洋菓子売店と喫茶室、2階西洋料理、3階中華料理、4階大宴会場、5階高級喫茶「スターサロン」の構成で、リニューアルした。1階ホールからのらせん階段の配置・壁面には飾りフレームのついた鏡、その両側には豪華なキャンドル型の照明などデザイン・インテリアに工夫がみられた。

(株)不二家フードサービス:045-252-8851


横浜市中区 野毛大道芸・野毛流し芸

JR桜木町駅近くの野毛地区は、戦後は、活気にあふれ、飲食店や商店街で賑わっていたが、都市開発、路線延長などによって訪れる人が少なくなったため、1986年に、野毛の街の活性化を図るために開催されたイベントで、春と秋の年2回開催されている。かなり高度な本物の芸を見ることができます。春は4月末頃の土日、秋は10月始め頃の土日に開催されています。野毛流し芸は、秋の大道芸と同日と7月中旬頃の夕刻に行われています。

野毛大道芸実行委員会:045-262-1234


横浜市鶴見区 横浜港の主力ふ頭・大黒ふ頭

横浜市鶴見区は、江戸時代から鶴見川の水運や東海道を往来する人々によって川筋や街道筋が賑い、漁業も盛んでしたが、鶴見川との戦いの歴史でもあった。明治に入ると西洋野菜の特産地として全国的にその名が知られ、海苔繁殖も行われるようになった。臨海部では埋立が進み、日本を代表する大企業の工場が進出し、京浜工業地帯の中核として大きく発展した。現在も横浜港の主力ふ頭で、コンテナ貨物や乗用車・トラックなどの完成自動車及び大型建設用機械などが取り扱う「大黒ふ頭」がある。富士山が眺められる美しい眺望や、臨海部大黒町と首都高速大黒ジャンクションのある大黒ふ頭を結ぶ「大黒大橋」、翼を広げて鶴が舞い立つような美しい形をした「鶴見つばさ橋」などや、歴史的な建造物も多くある鶴見区です。また,幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件があり。尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった。生麦事件の石碑は、京急本線生麦駅近くに残っている。


横浜市鶴見区 生麦村・生麦浦漁業 生麦魚河岸通り

江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の行列がこの地を通る際、街道に水が溜まっていて通行できなかった。そこで村の人々が、街道脇の生麦を刈り取り道に敷き、その上を行列に通らせた。秀忠は感謝として、この一帯に生麦という地名を与え、村人に漁業を営む特別な権利を与えられ。生麦浦は、将軍の食べる魚を1ヶ月に3度ずつ献上し、御用船の曳き船などの役を引き受けるのとひきかえに、江戸湾内で自由に漁業をする権利を認められ、御菜八ケ浦のひとつとして湾内漁業をリードした。生麦漁業の江戸時代における最盛時は、17世紀後半から18世紀前半(慶安〜寛延)にかけて、その頃漁師は25軒から43軒に増えていった。
生麦魚河岸通りには、1945年(昭和20年)頃は160店あったが、90年代には約80店になり、その後も軒数が減り、生産様式や生活様式が激しく変わる中で、伝統的な経済様式が変わることなく引き継がれている。魚河岸通りの特徴は、顧客が寿司屋及び小料理店などの飲食店で、業務筋が大半を占めている。顧客は地元の横浜、川崎が、多いが、東京方面にもおよんでいる。店によっては神奈川県の小田原、静岡県の熱海方面にまで出向いて行商を行なっているところもある。魚河岸通りの本質は小口卸売専門である。午前中の9時をすぎると業者の買物がおおかた終わるので、正午までくらいの1〜2時間は一般の市民も利用できる。素人が買うと 安くて品質が良いので評判は高く、東京などからのまとめ買いの街としては穴場的な存在。
また、天然温泉「生麦温泉」銭湯も、生麦3丁目〜5丁目に点在。泉質はナトリウム・炭酸水素塩冷鉱泉で、いわゆる黒湯で。「鶴見温泉」とも「横浜温泉」とも称される。

生麦魚介商組合:045-503-1030


横浜市鶴見区 キリン横浜ビアビレッジ
工場見学・ビールづくり体験教室

明治3年に、アメリカ人W・コーブランドが、横浜山手にビール醸造所「スプリングバレー」を建設。明治40年に麒麟麦酒鰍ノ引き継がれ、大正12年の関東大震災後の大正15年に現在の生麦に移転し、平成3年大規模なリニューアルを機にビアビレッジが開設されました。お客様との触れ合いの場「キリン横浜ビアビレッジ」では、ブルワリーツアー(工場見学)をはじめ、さまざまなイベントを開催して、皆様のご来場を心よりお待ちしております。
工場見学(無料):見学70分 見学:10:00〜16:30(30分間隔)
月曜休館:(祝日の場合は営業し、翌平日が休館)、年末年始休館
臨時休業:(2013年1月10日〜2月3日工事の為、製造ライン停止)
ビールづくり体験教室:毎週土・日、および第1水曜日 9時30分〜16時30分※毎月第3土・日を除く。(20才以上の方)
申込:グループ単位、1グループあたり4〜6名、1回あたり5グループまで。3グループで催行。
参加費:1名あたり(4名:3550円・5名:3100円・6名:2800円)(ビール代・配送代・昼食代)<実習の際には車でのご来場はご遠慮ください。>

キリン横浜ビアビレッジ見学受付係:045-503-8250


横濱中華街 春節・春節カウントダウン・厄除けのみこしくぐり
採青・春節娯楽表演・祝舞遊行

【旧暦のお正月、春節】
2012年は1月23日が春節です。この春節を祝い、横濱中華街では恒例の春節イベントを行います。爆竹が豪快に鳴り響き、シンバルや太鼓、銅鑼の音とともに春節を祝う中国獅子や龍が舞う華やかな中華街。期間中は歌や舞踊の舞台、中国伝統芸能の演技などもあり、お祭り気分いっぱいです。Y152メモリアル春節燈花のイルミネーションや提灯が輝き、いつもより華やいでいる中華街へどうぞお越し下さい。
【春節カウントダウン・厄除けのみこしくぐり】
春節カウントダウンは賑やかな爆竹で新年を迎える中華街のカウントダウンです。関帝廟と媽祖廟で開催されます。
【採青(さいちん)】
新年を祝うと共に富貴吉祥を祈る春節伝統行事です。獅子舞が各店舗の商売繁盛や五穀豊穣を祈願し、店頭に吊るされたご祝儀の紅包(ほんぱお)をくわえとります。
【春節娯楽表演(しゅんせつごらくひょうえん)】
獅子舞・龍舞・舞踊・雑技等の中国伝統文化の豪華絢爛な公演を行い来街者を魅了します。
【祝舞遊行(しゅくまいゆうこう)】
皇帝衣装・民族衣装・獅子舞・龍舞等が繰り広げる荘厳且つ華やかな祝舞パレードです。

横浜中華街発展会協同組合:045-662-1252


横浜市横浜港 横浜開港祭

横浜港は、安政6年6月2日(1859年7月1日)に開港された。開港時には、特にこれを祝う行事などは行わなかったが、翌年6月2日に、開港1周年を記念して民衆が山車などを繰り出して、祝ったのが横浜の開港記念日の始まりとされている。現在は毎年6月2日が、横浜の開港記念日と定められており、横浜市立の学校は休業日となる。現在の開港祭は、1981年に「国際デープレ横浜どんたく」として開催されたのが始まりで、翌1982年に「国際デー第1回横浜どんたく」とし正式スタート、1984年第3回より「横浜どんたく」となり、1993年第12回より「横浜どんたく開港祭」、1995年現在の「横浜開港祭」となった。現在では、観客動員70万人(2008年主催者発表)を動員する、横浜に夏の到来を告げる大イベントとなっています。

横浜開港祭実行委員会:045-212-5511


横浜マラソン2016 2016年(平成28年)3月13日(日)開催

大会名称:横浜マラソン2016
開催日:2016年(平成28年)3月13日(日)
メイン会場:パシフィコ横浜
競技規則:
本大会の大会規定および日本陸上競技連盟競技規則を準用する。
種目:
・フルマラソン
・10km
・10km(車いす)
・2km(車いす)
参加資格:
・フルマラソン
1997年(平成9年)4月1日以前生まれの方で、フルマラソンを6時間以内で完走できる方
・10km
2000年(平成12年)4月1日以前生まれの方で、10kmを1時間20分以内で完走できる方
・10km(車いす)
2003年(平成15年)4月1日以前生まれの方で、10kmをレース仕様の車いすで45分以内に完走できる方
・2km(車いす・付添伴走(介助)可)
2009年(平成21年)4月1日以前生まれの方で、2kmを車いすで40分以内に完走できる方(車いすの仕様に制限はありません。)
参加料:
・フルマラソン:15,000円
・10q:5,000円
・10q(車いす):5,000円
・2q(車いす):5,000円
・チャリティ枠 フルマラソンのみ:50,000円
(フルマラソン参加料15,000円+チャリティ35,000円)
・外国人優先枠 フルマラソンのみ:17,000円
(フルマラソン参加料15,000円+手数料2,000円)

横浜マラソン2016に関するお問い合せ
横浜マラソン組織委員会事務局
〒231-0015 横浜市中区尾上町6-81 ニッセイ横浜尾上ビル内
TEL:045-651-0666(平日9:30〜17:00)
http://www.yokohamamarathon.jp/2016/index.html
(横浜マラソン2016公式ホームページ)


横浜市 横浜発祥 崎陽軒のシウマイ・100余年の歴史と伝統

今も、横浜駅へ行ったら、駅弁・お土産はシウマイをと、思う人は多いのではないでしょうか。崎陽軒は1908年創業の歴史と伝統を尊重しながら、横浜に一つの文化ももたらしました。1950年「シウマイ娘」。横浜駅ホームに赤い服を着てたすきをかけ、手籠にシウマイを入れ「シウマイはいかがですか」と、車窓から売り歩く。「横浜にシウマイ娘あり」と評判を呼び、「同じシウマイを買うなら、シウマイ娘から」と言われるほどになりました。シウマイ弁当は1954年に登場した。また、横濱牛めしは、横浜発祥の料理・牛鍋を、崎陽軒が独自にアレンジしました。味噌仕立ての牛ロース肉と中華風の牛そぼろを合わせ、海外と日本の食文化を調和させてきた横浜ならではの味を楽しめます。神奈川エリア限定です。

(株)崎陽軒:045-441-8851


三浦市特産 三浦大根

三浦大根の歴史は古く、寛永年間の頃より栽培されています。三浦特産の冬ダイコンは「三浦ダイコン」として長年にわたって名声を維持してきましたが、近年は青首ダイコンが99%と主流になっています。生産額順位で毎年1・2を誇っています。

三浦市政策経営課:046-882-11110



東京港青海ふ頭 臨海副都心地区全体を指す愛称「お台場」

1853年(嘉永6年)ペリー艦隊が幕府に開国要求を迫って来た為、幕府は直接防衛のため、品川沖に海上砲台六個と御殿山下台場と合わせ八個の砲台が建設されました。御台場があった場所。臨海副都心地区全体を指す愛称として「お台場」と呼ばれています。お台場付近は港区・江東区・品川区のちょうど境界線にあり場所によって区が異なります。東京都港区台場と東京港埋立13号地一帯を舞台に、ウォーターフロントの魅力を最大限に活かした水辺や緑の空間、うるおいとやすらぎのある都市景観を創造し、色々な機能が複合したアメニティの高いまちづくりが進められています。商業施設の充実と都会のアーバンリゾートとして人気がある地域です。

東京港埠頭褐園センター:03-5500-2455